レジデント:ある外科医の研修時代:米崎周太郎著


第1話


・・・ひどい雷鳴だ。今日は土砂降りだ。せっかくの休みなのに・・・まだ鳴り続いている。いやな音だ。・・・どこか遠くで電話が鳴っていた。俺を呼んでいる電話だ。それはわかっていたが、なぜか出られない。

「もしもし、米崎ですが」

 受話器を持ってそう答えながらも完全に目が覚めているわけではない。

『501号室の水沢さんが38.3度の発熱です。カロナール座薬を使ってもよろしいですか』

 時計は1時に近い。そう言えば、俺は病院の当直をしていたのだった。

「使って下さい」

『508号室の相沢さんが不眠を訴えていますが・・・』

「不眠事の指示出ていないの?」

『いいえ、出ていません』電話口の看護師は冷たく事務的に答えた。

「じゃあ、ハルシオン(睡眠薬の一種)やって下さい」

 眠いのは俺の方だ、と心の中で罵った。電話がある前どんなに深く眠っていようが、電話のあとはたっぷり1時間は眠れなくなってしまう。

 人生の三分の一は睡眠時間だ、と言う。だから最も重要な時間なのだ。不眠を訴える患者は最も多い。俺もその中の一人だ。眠れなければ起きていればいいという医者も多いが–––明日のことを考えなければ、の話だ。人は何故眠るのか。明日、目覚めるためだという。そんな事を考えながらまた眠りに就こうとした。案の定、眠れそうになかった。


 又、電話が鳴った。いつの間にか浅い眠りに就いていたらしい。くそ、せっかく眠っていたのに。

『三階の RCU (Respiratory Care Unit––呼吸器疾患集中治療室の略) です。今、患者さんの呼吸が止まっているようです』

「すぐ行く」受話器を激しく置いた。

 ツイてない、なんて考えている暇はない。ベッドから跳ね起き、上着を着、白衣を羽織る。

 寝ている時はタダの男だ。それが白衣を着ると三十秒で医者ということになる。二階にある当直室から階段をころがり落ちるように降り、別棟に向かう渡り廊下を走る。RCU は、別棟にある。エレベーターは八階に止まっていた。階段を昇り RCU に駆け込んだ時にはだいぶ息が切れていた。看護師からアンビューバッグを受け取り、患者の口に当て、呼吸させる。心臓は弱々しく動いている。

「マッキントッシュ!」看護婦が差し出したマッキントッシュ(喉頭鏡。気管内挿管の時使う)を左手に取り、患者の口をこじ開け、マッキントッシュをぶち込み声帯を直視下に見る。そして看護師から挿管チューブを受け取り、チューブを声帯を越えて気管内に挿入する。–––と書けば簡単な事だが、挿管は熟練を要し、その時はいつだって緊張する。それに熟練した奴だって百発百中とは行かない。俺は未熟な医者だ–––その上、眠い。

「挿管チューブ!」右手を看護師のほうに差し出す。この時、視線は看護師がいかに綺麗な女性だろうと決して彼女の胸なんか覗き込んじゃいけない。患者の声帯だけを見ていることが肝要だ。

 チューブが声帯を越えたのを確認、マッキントッシュを口から取り出す。

「バルーンにエア入れます」

「お願いします」挿管チューブがバルーンによって気管内に固定される。

 次の瞬間には、部屋の片隅に常時スタンバイしている人工呼吸器を引っ張って来て、チューブに繋ぐ。

 聴診器で左右肺の呼吸音を確認する。

「血圧六十です。脈も微弱」

 点滴の落ちる速さをやや早くする。挿管チューブ内から痰を吸引したのち、呼吸音を再び確認–––今度は正常だ。

「一発で入った。奇跡的だね」

 誰に言うでもなくつぶやいた。看護師が低く笑った。

「次にノルアド(ノルアドレナリンの事。無論、昇圧剤である)半筒やってください」

 俺に気管チューブを渡した看護師は、俺好みの美人だった。スレンダーで、胸はあんまりない。黒髪はショートカットにしている。–––いずれにしろ、挿管の時彼女を見なくてよかった。もし見ていたら俺の視線は患者の声帯じゃなしに彼女の方に釘付けになっていたろう。

「心電図モニターつけてください」

「血圧八十、心拍数六十」血圧係の看護師が言った。RCU の中にいる三人の看護師の中で最も若いらしい。胸も大きく、スタイルも良いし、顔も若さで輝いていた–––けど、俺の好みじゃなかった。もう一人の看護師は一見して四十近い。心電図の用意をゴソゴソしている。患者の脈を診る。脈の緊張はだいぶいいがまだ徐脈だ。

「ノルアドを一アンプル点滴内に入れて」

 これでいいだろう。心臓は力強く動いているし、呼吸は勝手に人工呼吸器がやっている。

 ペンライトで瞳孔反射を見る。思った通り反射は見られなかった。瞳孔は散大したままだった。『脳死に近いな』俺は独りごちた。

 患者は五十四歳の男性、肺がんの末期だったらしい。今朝までは何とか食事をしていたらしい。点滴は右手の肘静脈からかろうじて入っているだけだ–––。

「IVH (中心静脈栄養)カテーテル入れますか」若いほうの看護師が道具を取りに走っていく。年配の看護師は心電図モニターをつけた後看護師詰所のほうで記録を付けている。

「血圧110です」俺のお気に入りの看護師がそう告げた。俺は人工呼吸器の設定条件をチェックしている。十数個に及ぶ細々としたスイッチやツマミをいじくり回す。–––まあ、こんなものだろう。一人でつぶやいた。一瞬、静寂が訪れた。とりあえず今は何もすることがなっかった。

「名前、何ていうんだい?」

「この患者さんですか? 木村定夫さんです」

「君の名前だよ、何ていうんだ?」

「山崎奈央です」

「何歳?」

「女性に年令聞くんですか」

「二十三、四かな」

 その後は笑って答えなかった。その時、ちょうどあの若い看護師の方が機械類を持って入ってきた。

「じゃあ、消毒を」そう告げると、山崎看護師が

「米崎先生、やはり IVH カテを挿入するのは主治医の先生の許可を得た方が良いのでは」と言った。

「それなら、人工呼吸器を繋ぐのも主治医の許可が必要だったと」

「そうではなく、呼吸器を繋いだのはやむを得ない緊急措置だったと思いますが、点滴は現在末梢ルートが一本確保されており、急いで IVH カテを挿入しなければならない状況ではないと思います」

「・・・」

「それに現在深夜帯であり、スタッフの人員も限られています。日勤帯での処置を考えた方がいいのでは」

「そうか、そうだな、ちょっと考えよう」

 カルテに一筆記載し、当直室に帰る事を看護師に告げ、消えた。時計は2時半に近かった。しかし、当直室のベッドに寝転んでも、窓が白々となるまで眠る事はできなかった。



あの頃(1)

 この小説を Nifty-serve の FCASE に発表したのは1990年頃だったと思う。後で自費出版もしたが、その奥付には「1996年6月1日初版」と記載してある。それからでも無慮22年あまりの日時が経っている。感慨が深い。さて、発熱患者に対し発表当時は問答無用でインドメタシン座薬を使っていた。これはかなり強力な薬で、副作用も、胃潰瘍などあったが、現在は第1選択はカロナール座薬(アセトアミノフェン)であり、これは作用は弱い。しかし安全域は広く、副作用も少ない。時代を尊重しインダシンとするか迷ったが、患者が老齢であると仮定の下このような指示を出す事にした。何しろカロナールはこの時代からあったのだ。

 また、「ハルシオン」であるが、効き目は確かで、不眠にはハルシオンという時代・医師もいた。しかしやはりこれも「ハルシオン」依存症とも言うべき患者が現れ、見直しされた。ウチの病院には「ハルシオン」置いていません。

 原作では第一話の後半 IVH カテを挿入するプロットがあるが、少し現代的でないのでカットした。ただし二十台前半の看護師がこれを制止するが、これもあまり現実的ではない。また、かなり大きな病院の当直をしているらしいが、一人当直というのもちょっとおかしい。



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